キリスト教は、もともとユダヤ教から派生した宗教ですが、両者の違いとは、一体何でしょうか?

その違いを知るためには、「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを知る必要があります。

「聖書」が伝える神の本質は次の通りです。

わたしは熱情の神である。わたしを拒む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える

わたしを拒むか? それとも愛するか?

 

実は聖書全編を通じて流れているのは、この神のこの問いかけです。

だからこそ、二者択一を迫る神と、それに答える人間との間に契約が必要とされるのです。

 

拒むのか? 愛するのか? という契約であり、中間はあり得ません。

そして愛すると契約したその時点から、神は情熱的にその人を愛し始めるのです。

 

 

「旧約聖書」では、イスラエルの神は様々な名称で呼ばれていますが、そのうちもっとも多いのがYHWH(6500回以上)で、正確な読み方はわかっていません。

が、一般的には、ヤーウェまたはヤハウェ(文語訳ではエホバ)と表記されています。

「YHWH」という名前には、実際に「存在する者」という意味があり、後世になると神に対する畏敬の念から、ヤハウェの名は囗にされなくなりました。

 

それでは、「旧約」と「新約」はどう違うかというと、旧約とはヤハウェとの「旧い契約」であり、新約とは神との「新しい契約」のことです。

「旧い契約」とは、紀元前2150年頃、それまでエジプトで奴隷として虐げられてきたイスラエル民族がエジプト脱出後、シナイ山の麓で頂言者モーセを介して唯一神ヤハウェとの間に結んだ契約のことです。

つまりイスラエル民族が神の与えた律法を守るのなら、彼らはヤハウェの民となり、同時に神もイスラエル民族を守ろうということです。

したがって、他の神々を信じるようなことがあれば、この契約は破棄されることになり、しかも、その時、神はイスラエル民族の前から消え「わたしを拒む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」というから恐ろしいのです。

果たして本当に神が本当にそんなことを言うでしょうか。

 

ところで、「新しい契約」とはどんな契約でしょうか。

イエスの使徒パウロは「人間が救済を得るためには律法を守る必要はなく信仰だけで十分である」と解説してます。

イエスは一世紀初頭、パレスチナのガリラヤ地方で宣教活動を行ないました。

そして、「神の国に入るためには、ユダヤ教の律法を守る必要はない・・「神の愛を信じればそれで十分だ」と語り、貧しい人々を救うためにユダヤ教の生命線ともいうべき安息日や食事などに関する律法を破ってみせたのです。

「旧い契約」を神の罰を恐れ「神の律法」という行動規範を守っていさえすれば救済が来る言うのなら、「新しい契約」とは、神そのものを信じて、それを隣人にも働きかけようという新たなる約束事なのです。

こうした神との契約に対する考え方の違いが、ユダヤ教とキリスト教の違いとなって現われているわけです。

両者の対立が激しくなったのは、かつてのローマ帝国のコンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認し、国教として以降です。

それからユダヤ人は差別や迫害の対象となり、1993年9月、イスラエルのチーフラビとローマ教皇(ヨハネ・パウロニ世)との問で和解が成立。

チーフラビとローマ教皇

チーフラビとローマ教皇